ZL-P DISCOVERY

隠されているもので、あらわにならないものはない

【隠された飛行技術(3)】ライト兄弟とスミソニアン協会

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 隠された飛行技術があるとした場合、一体それはいつから使用されていたのだろうか?さすがにライト兄弟は真面目に浮力で飛んでいただろうと思っていたのですが、ウィキペディアにあるライト兄弟のページを読んでいたときに気になる点が3つありました。

 

●1.オリジナルと復元機との飛行結果に差がありすぎる

 ライト兄弟が飛行を成功させたライトフライヤー号の復元機はいくつか作られたことがあるらしいのですが、それらの飛行結果とライト兄弟が出した結果が違いすぎている問題があります。以下はウィキペディアからの引用です

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 ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず、完成した復元機に至っては離陸すらできなかった。ライト兄弟が成功したのは当日の強風と、それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もある。

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ライトフライヤー号の初飛行(1903年12月17日)

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条件が良好であったとはいえ当日の4回目で約259.6mの飛行に成功しているのに対して、復元機が離陸すらできなかったという点が非常に気になりました。オーヴィル・ライトの操縦技術が高いことを考慮しても、この結果の違いは何か特別な要因があるように思われます。もし浮遊するための装置を使用していたとすれば全て解決するのですが、この写真からは確認が難しいです。そんな装置がなかったとすれば、オーヴィル・ライトの技術力が人間離れしていたということになります。

 

●2.ライトフライヤー号の扱い

 ライトフライヤー号に関する事件についても気になりました。ウィキペディアに書いている事件の内容を簡単に説明します。ライト兄弟が飛行に成功してから彼らはスミソニアン協会と初飛行を成功させたのは誰かという点について争うことになります。スミソニアン協会は最初に飛行を成功させたのはライト兄弟ではなくサミュエル・ラングレー(ライト兄弟の前に飛行実験に失敗していた人物)であると世間に宣伝してオーヴィル・ライトを怒らせました。抗議を無視するスミソニアン協会に対して説得することを諦めたオーヴィル・ライトは1928年にロンドンの科学博物館からのライトフライヤー号を展示したいという申し出を受諾します。ライトフライヤー号がロンドンの科学博物館に展示されていることを知ったスミソニアン協会はそれをアメリカに戻すようオーヴィル・ライトに要求します。オーヴィル・ライトが「歴史を正しく修正する」ことを条件にして譲らなかったため、最終的に1942年にスミソニアン協会はライト兄弟の偉業を認める声明を発表しました。

 初飛行を成功させた機体がアメリカではなくイギリスにあることが許せなかった世論がスミソニアン協会に圧力を加えた結果だと思われていますが、私にはスミソニアン協会がベンチマークを恐れていたからだったように思えます。展示物を分解する奴なんて普通はいませんが、もし万一ベンチマークする輩が現れた場合、世の中に航空技術が拡散されてしまう、そのことをスミソニアン協会は恐れたのではないかと。もしそうだとするとライトフライヤー号には何か重大な技術が搭載されていた可能性が高いことになります。

 

●3.ライト兄弟が飛行に成功してから航空機の開発スピードが加速している

  ライト兄弟が飛行に成功した1903年から、それまで失敗続きだった航空機開発は堰を切ったように加速します。この事実は1903年頃に技術革新がなければ説明できません。この頃は丁度ファーブル昆虫記が刊行されていた時期でもあり、昆虫を研究していた科学者もそれなりにいたでしょう。隠された飛行技術が昆虫の飛行原理を利用していたとしたら、発見されたのがこの時期であることは必然のように思われます。

 

 ●結論

 したがって結論としては、ライト兄弟が隠された技術を使っていたか、使っていなかったとしても1903年頃にはすでにそれはあった可能性が高いということになります。これは私の勝手な妄想なのですが、隠された飛行技術を作ったのはサミュエル・ラングレーだったように思えます。彼はアメリカ政府から飛行機開発のために多額の資金を受けており、ライト兄弟にも研究資料の提供をしていました。1903年10月7日と12月8日に飛行実験に失敗していますが、本当はそこで成功するはずだったのでしょう。しかし政府からの投資額の大きさを考えると失敗は許されず、自分の飛行実験がもし失敗したときのためにグライダー(滑空機)操縦に実績のあるライト兄弟に保険をかける意味で資料提供をしていたように見えます。

 よく「軍事技術は100年先を行っている」と言われますが、今回それを垣間見た気がします。飛行機ははじめから軍事目的で開発されたものであり、オーヴィル・ライトは自分が開発に加担したことを晩年に後悔しています。