ZL-P DISCOVERY

隠されているもので、あらわにならないものはない

キリストされたイエス

 人類に一番影響を与えた人物はイエスキリスト(Jesus Christ)だと言われています。宗教の中で一番人口が多いのはキリスト教ですし、西暦がイエスの生まれた年を元年にしていることからもその影響力の大きさが分かります。しかし同時にイエスは人類史上最も謎の多い人物でもあり、ユダヤ独立のリーダーだったとか、最強の魔術師だったとか、実は死んでなかったとか、そんな人物はいなかったなどの色々な噂がネット上で散見されます。

 ここで一般に理解されているイエスの物語を確認しておきましょう。イエスは西暦元年にイスラエルベツレヘムで生まれた人物で、成長した後は大衆に「教え」を説いていきました。ところがイエスを快く思わない者たちによって十字架にかけられて殺されてしまいます。しかし3日後に甦り弟子たちの前に現れ、最後は天に昇っていったとされています。そしてキリスト教ではこのイエスの十字架における死は人類の罪を贖う為であったとして、それを信じるものは罪を許されて天国へ行き永遠の命を得るとされているのです。

 

 本題に入る前にまずはみなさんに私の証しを聴いていただきたいと思います。私はクリスチャンの家庭に生まれ、小さい頃から教会学校で聖書の物語を聞いて育ちました。小学生の時には洗礼も受けています。信仰の中にあった少年時代でしたがある日教会の中でふと次のような疑問が浮かび、父に質問したことがあります。「十字架の救いを知り得る機会がなかった人たちはその為だけに地獄へ落ちるの?」。父は困った顔をしてすぐには答えてくれず、後日「きっと神様が何らかの計らいをしてくれているはずだ」という主旨のことを私に答えました。子供だった私はこの答えに釈然としなかったものの、そういうものなのかなと思い、特に反論もせず受け入れていました。しかし大人になってからザビエルが当時の日本人から同じような質問をされていたことを知り、再びこの問題に直面することになったのです(やっぱりそう思いますよね御先祖様)。他にも色々あって私はキリスト教について改めて調べてみようと思い、インターネット上で色々なサイトやブログを漁って読むようになっていきました。

 そしてある時パウロを糾弾するサイトに出会います。10年位前に偶然見つけたサイトだったので今はもう見つけることができないのですが、そのサイトは「十字架の救いとはパウロが勝手に言い出したことであり、イエスの教えではない」と主張していました。聖書を読んだことがない方に説明しておくと、パウロとはローマ市民権を持ったユダヤ人であり、最初はキリスト教徒を迫害していましたが、途中からキリスト教へ回心し、その後は熱心にキリスト教を伝導したとされる人物です。彼がキリスト教へ与えた影響は非常に大きいのですが、先のサイトは彼こそがイエスの教えを捻じ曲げた張本人だと批判していたのです。

 私は最初この主張をあまり真剣には受け止めていませんでした。しかし聖書の成立過程の中でマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ以外の福音書が排斥された事実を知ったとき、この主張を無視することができなくなってしまったのです。というのも本の排斥は時の権力者が歴史を捻じ曲げるときに使う常套手段であることを知っていたからです。つまりローマ帝国を支配していた者たちはイエスの教えを捻じ曲げるためにパウロ工作員として送り込み、キリスト教の成立に介入したと考えるとうまく辻褄が合ってしまうのです。

 私は十字架による救いがローマ帝国を支配していた者たちによって偽造されたものである可能性を突きつけられて非常に動揺しました。そのことを認めたくがない為にマルコによる福音書を一気に読んでしまった程です(マルコによる福音書を選んだ理由は成立年が一番古いと聞いていたので偽造の余地があまりないと思ったからです)。しかし洗礼を受けたときに買ってもらった聖書の中の「マルコによる福音書第16章9節から20節」には括弧書きがしてあり、後世に追加されたものである旨が記されていました。これは誰かが都合の良いように物語を追加した形跡なのではないかという印象を私に与え、さらに動揺することになったのです。当時の私の心境は穏やかではなく、キルケゴールが大地震と表現したものを経験することになりました。今まで信じていたものが一気に崩れ去る経験をされた方なら当時の私の心境を理解していただけるかと思います。しかし今にして思うと私が自分の父親にあの質問をしたときからこうなることは決まっていたのかもしれません。

 私の感性は動揺し狼狽えていましたが、私の理性は冷静に次のようなことを考えていました。「イエスが後世に与えた影響力の大きさを考えると、ただ普通に処刑されただけの人物だったとは思えない(なぜなら嘘というものは真実に寄り添わないと生きていけないから)。イエスについて何か大きな真実が隠されているのではないだろうか」。次第に私はイエスが人々に何を説いていたのかに興味を持つようになり、今まで漠然と聞いていたイエスの教えについて考えるようになりました。ただし新約聖書福音書たち(共観福音書)はローマ帝国による編集を受けていることが疑われる為、排斥された福音書たち(特にトマスの福音書)も考察の対象に加える必要があると思っています。

 イエスの教えについては今もなお考察中なので確信を持って論じることはできないのですが、今考えていることを少しだけ述べさせて頂きます。まず私はその教えをブッダが人々に説いていたことと同じもの、つまり「この世界の構造と真実」だったのではないかと予想しています。しかしブッダが80歳まで大往生したのに対してイエスが33歳で処刑されたことを考えると、その教えはブッダよりもさらに何らかの意味で核心に迫っていたと考えられます。

 そもそも十字架にかけられたというストーリーの存在が(たとえそれが作り話であったとしても)イエスの教えを隠そうとしているように私には思えてしまうのです。というのも十字架またはXには封印の意味があるとどこかで読んだことがあるからです。つまり「十字架にかけられた(Jesus Crucified)」と後世の人々に認識させること自体がイエスの教えを封印すること(Jesus Crossed)になるし、ローマ帝国の背後にいた者たちが今でも多額の資金をかけてX'masを盛大に祝うよう仕向けさせている所以でもあると思うのです。もちろん都合の悪い福音書を排斥したり、パウロによる十字架を強調した手紙を新約聖書に採用させたことも、イエスの教えを隠すための工作であったと解釈できます。

 以上のように2000年に渡って封印し続ける必要がある程にイエスの教えはある者たちにとっては脅威であったことが分かります。そして脅威であった理由については次のように考えることができます。すなわち、人が何かを隠そうとするときは、自分の利益が脅かされる時であり、しかも守ろうとする利益が大きければ大きいほど、その際に支払われる労力も大きくなるということです。現にイエスの教えを隠すために支払われた労力は先に書いた通り凄まじいものでした。

 そうすると次はその守ろうとしていた利益とは何なのかという話になってきます。先に予想したようにイエスの教えが「この世界の構造と真実」だったとしたら、ローマ帝国の背後にいる連中が守りたかったのはそれに付随する「バグ技」だったのではないかというのが私の予想です。新約聖書の中でイエスはいくつもの「奇跡」を起こしていますが、これもゲームでいうところのバグ技(もしくは裏コマンド)を利用していたように見えます。オンラインゲームを経験している方なら分かると思いますがバグ技を駆使して利益を得ている集団にとってチート技の一般公開は絶対に阻止しないといけないものです。秘密結社が儀式の秘密を口外した者を見せしめの為に儀式的な方法で殺すという話を聞いたことがありますが、イエスの十字架刑もそれとよく似た現象だったのかもしれません。

 イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けているので、恐らくヨハネの属していた組織に入ったものと考えられますが、その組織こそバグ技を蓄積していた者たちの集まりであったと推測されます。イエスはその組織の中でバグ技を習得し、その後荒野で悪魔から誘惑を受けるもののそれをイエスが拒否する様子は、バグ技を秘匿して利益を得るのではなく一般にバグ技を公開してゲームに公平性を与えることを(殺されたヨハネの意志を継いで)イエスが選択したことを表現しているのではないかとも読めます。これもオンラインゲームをプレイしたことがある方なら経験があるかもしれませんが、バグ技を見つけてもそれを隠さずみんなに公開する者が現れる現象があります。イエスがそんなことをしようと思った正確な理由は分かりかねますが、もしかしたらそれは「詰らなかったから」なのかもしれません。何も変化がない景色をずっと眺める続けることは退屈で苦痛なことだからです。もちろんイエスの背後にローマ帝国に対抗する勢力がいたとするなら、彼の行動は単なる工作活動の一環ということになりますが、たとえそうであったとしても彼は世界の平穏よりかはむしろ世界の変化を望む人物であったことは確かでしょう。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です」「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです」。そういうわけで2000年前にイエスが火を投げ込んだことにより新しい時代が始まったと思われます。

 ここでイエスは本当に甦ったのかという問題についても考えることは避けられないでしょう。というのもローマ帝国の目的がイエスの教えを封印することだったとしたら、当然イエスの死後弟子たちに偽物を差し向けることだってあり得るからです。一番古いと考えられているマルコによる福音書でも実は追加された文章を除くと女たちがイエスが甦ったことを告げられて帰るシーンまでしか描かれておらず、その後は謎に包まれているのです。マタイによる福音書では甦ったイエスを疑う弟子がいたことが書かれていることから、必ずしもこのイエスが本物であったと断定できなかったことが窺われます。ヨハネによる福音書ではトマスがイエスの復活を疑うシーンが描かれており、これが原因で彼は「不信のトマス」として後世で批判を受けることになります。しかし普通に考えれば死者が甦ることを疑うのは当然であり、しっかりとこの目で事実を確かめるまで疑い続けることは理性的な行動であるように思われます(特にジャーナリストはそうあるべきです)。このエピソードはトマスのような疑う者たちを牽制する意味を込めてヨハネによる福音書に差し込まれたのではないかと勘繰らざるを得ません。そしてヨハネによる福音書の中で甦ったイエス(?)はトマスに次のように言うのです。「見ずに信じる者は幸いです(たとえ嘘であったとしても信じろ)」。

 しかしイエスの教えは激しい迫害・妨害にも関わらずその後も急速に広まっていきました。ローマ帝国は最終的に313年に態度を一転させキリスト教を公認し、国教化することになります。そのとき開かれたニカイア公会議で「正式なキリスト教」が決定され、それ以外(アリウス派など)は異端であるとして排斥されることになりました。ここで一つ疑問なのはどうしてローマ帝国が180度方針を転換することができたのかです。そのカギを握るのがパウロであり、彼が作り上げた十字架の救いを基礎としたキリスト教を利用することによりイエスの教えを覆い隠したのではないかというのが私の考えです。ところで洗礼を受けるときに聖書の勉強をしましたが、そのとき聖書の全巻数66(旧約39、新約27)は聖なる数字だと教わりました。彼らがなぜ全巻数を66にしたのかがずっと気になっています。

 

 

 16世紀にカトリック教会が免罪符を発行してお金儲けをしていたのに対してルターが抗議したという歴史がありますが、そもそも十字架による罪の赦し自体が同じようなものではないでしょうか。私は「プロテスタント(抗議する者たち)」に属していましたが、今は「さらに抗議する者たち」に属することになってしまいました。

 子供の頃に「いつか反キリスト(民衆を惑わす者)が現れる」と教えられきました。そいつは一体どんな奴なんだとずっと思っていましたが、まさか自分がその一人であったとは夢にも思っていなかったので、今はただ驚いています。ローマ帝国の背後にいた者たちは後世に抗議者たちが現れることを当然予想していたでしょうから、先手を打つ意味で反キリストという存在を宣伝していたのかもしれません。しかし隠されたものであらわにならないものはないので、真実は必ず白日の下に曝されるでしょう。そして7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が(イエスをキリストした)人々に下る、終わり。