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隠されているもので、あらわにならないものはない

【隠された日本史(1)】終わらない運動会

 私の通っていた小学校の運動会では紅白に分かれて点数を競い合う形式が採用されていました。年末の紅白歌合戦でも同じく紅白に分かれて投票数を競い合う形式が取られています。この様に日本では赤組と白組に分かれて競い合う形式が深く根付いているのですが、その起源は平安時代末期の源平合戦にあると考える人が大半だと思います。本シリーズではこの源平合戦を主軸にして日本の歴史を考察していきます。

 

 ここで一旦学校で習った歴史を復習しておきましょう。源平合戦とは平安時代末期に平氏による独占政治を快く思わない勢力の一つである源氏が反乱を起こしたことにより勃発した戦争でした。最終的に平氏が壇之浦で滅ぼされたことによりこの源平合戦終結したと教科書には書かれているのですが、果たしてそれで終わりだったのでしょうか。この戦いは一見ただの国内2大勢力の権力争いに見えますが、実は私たちが思っている以上に根が深い戦いだったのではないかというのが本シリーズの趣旨となります。というのも鎌倉時代以降もこの源平合戦が続いていたと思われる痕跡があるからです。その流れについてこれから簡単に見ていきましょう。

 鎌倉幕府は成立当初は源氏が実権を握っていましたが、後に北条氏が実権を握ることになります。この北条氏、実は平氏ではないかという説があり(本記事ではこの説が正しいとして話を進めます)、源平合戦における源氏は単に平氏の内乱に巻き込まれただけだったと見ることもできます。つまり平氏は滅んだのではなく、それどころか鎌倉幕府を乗っ取って再び日本を支配していたということになるのです。

 再び日本を支配した平氏でしたがモンゴル帝国(元)に攻められることになります。ところで源義経は実は生きていてチンギスハンになったという説をご存知でしょうか。この説自体を正しいと主張するつもりはありませんが、モンゴル帝国が後に中国を支配したときに国号を「元(源)」としたのはチンギスハンが他ならぬ源氏の流れを汲む人物だったからであるとする説をネット上のどこかで読んだことがあり、あながちこの説は間違っていないのではないかと思っているのです。そしてこの説が正しいとすると平氏に乗っ取られた鎌倉幕府元寇で源氏に攻められたことになり、この元寇によって鎌倉幕府の財政は悪化して滅亡することになります。中には元寇で元軍は日本の侵攻に成功しており、元軍が鎌倉幕府を直接滅ぼしたとする過激な説すらネット上で読んだことがあります。

 鎌倉幕府が滅亡した後は朝廷が建武の新政を開始しますが、建武の乱で朝廷が足利尊氏に敗北したことにより新政権は崩壊、足利尊氏の開いた室町幕府が実権を握ります。鎌倉「幕府」を開いたのが源氏であるならば、室町「幕府」を開いた足利氏も源氏と見なすことができるのではないでしょうか。ついでに室町幕府成立後もしばらく抵抗を続けた天皇側は南朝足利尊氏が擁立していた天皇側は北朝と呼ばれていますが、ここまでの流れを鑑みると南朝平氏北朝は源氏と見なすことができます(後に両者は室町幕府によって合一させられます)。

 室町幕府が成立して以降はそれなりに安定した時代が続きますが応仁の乱によって守護大名の力が増大し戦国時代に突入します。室町幕府を源氏の政権と考えるとこの戦国時代は平氏の反乱期であったと捉えることができます。そして豊臣秀吉が天下を統一して「幕府を開かずに」朝廷から関白に任命されます。しかしその後関ヶ原の戦いで豊臣家は徳川家に敗北し、徳川家康が江戸「幕府」を開きました。つまり再び源氏の時代になったと見なすことができます。

 江戸幕府成立後もそれなりに長く安定した時代が続きましたが、ペリーの黒船襲来以降国内は混乱し、最終的に江戸幕府薩長同盟に滅ぼされて天皇を元首とする大日本帝国が誕生します。この大日本帝国江戸幕府(源氏)を終わらせたという意味において平氏と見なすことができます。そしてその平氏である大日本帝国は第2次世界大戦でアメリカに敗北し天皇を象徴とする日本政府に変えられました。ここまでの流れを以下に簡単にまとめてみました。

 

平安時代平氏

鎌倉時代(源氏)

建武の新政平氏

室町時代(源氏)

戦国時代(平氏

江戸時代(源氏)

明治〜戦前(平氏

戦後~(源氏)

 

 なぜ戦後は源氏と見なすことができるのかについて説明します。平安時代から明治時代までの流れを見て気が付くのは平氏が朝廷(天皇)を重視しているのに対して源氏は朝廷(天皇)を軽視して幕府を開いて政治を行なっている点です。ということは天皇を元首としていた大日本帝国平氏と見なすならば、天皇を象徴にして政治から遠ざけている今の日本政府は源氏と見なすことができると考えて戦後は源氏としました。

 

 ところで源平合戦における屋島の戦い那須与一平氏側の扇を矢で射抜く有名なシーンがありますが、昔の日本画ではその扇は赤地に金色の丸として描かれています(描く人によっては白地に日の丸だったり赤地に黒い丸だったりしますが本記事では無視します)。ところで赤地に金色の丸と言えば天皇旗が思い浮かびます。つまりここからも平氏は生粋の天皇側の勢力であると見なすことができます。

那須宗隆射扇図 作:小堀鞆音
平氏の扇が赤地に金色の丸として描かれている

天皇
赤地に金色の菊の紋が使用されている

 一般的に平氏は赤地の旗、源氏は白地の旗を使用しているイメージがあるかと思いますが、色に対する拘りには違いがあるようです。国内のシェアを二分するような企業のロゴを見てみると分かりやすいのですが、例えばJALは赤い鶴を使っているので平氏側と推測できますが、対する源氏側と思われるANAは青いトリトンブルー(モヒカンブルー)を使用しており白色ではありません。これはおそらく白色というのが全ての色を内包していることが影響していると考えられます。白色には青色が含まれているので別に青色でも問題ないということです。

JALANAのロゴ

 ただしややこしいのは白色には赤色も含まれているので赤色だからといって平氏側とは限らないということです。例えば北条氏は平氏(赤色)にも関わらず源平合戦では源氏(白色)についていました。平氏は赤色に拘るのに対して源氏はそこまで色には拘っていないため何色でも使用してくるので、源氏はその他連合軍という性格が強いのかもしれません。

 

 以上のことから日本史というのは天皇を擁護する勢力と天皇を敵視する勢力に分かれて延々と争っていた歴史であると言うことができます。そしてこの日本の歴史、すなわち終わらない運動会を理解するためには天皇とは何かを考察する必要がありそうです。

 

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